朝と夕方

朝と夕方に記事を更新します。その時思いついたことそのままの日記。

日記

日記を書こうと思う。でも指が冷たい。さつまいも人参その他諸々を洗い、料理をこしらえていたからだ。しかも、雪見だいふくを食べている。美味しい。アイスといえば、雪見だいふくである。冬でも食べたくなるそのデザインは秀逸である。雪に見立てた大福、という意味で、雪見だいふくなのだろうか。それとも雪を見ながら食べる大福で、雪見だいふくなのだろうか。書きながら、どちらでもよくなった。

今日の仕事は、広辞苑を眺めることとご飯を食べることと絵描きと昼寝であった。広辞苑はやはり面白い。職場への道すがら捨てられていたので拾った。第6版である。職場に据え置き、ちらちら読んでいる。カフェインのことを日本語で茶素というそうである。一ページに必ず何かしらの驚きがある。こんな本も珍しいなあ、などと思う。俺は新しい言葉より古い言葉が好きなので、古い国語辞典を集めて読むのも面白いかもなあ、と思っている。職場にて、同一人物であると思っていた人が、実は、別々の、血縁関係も年齢も異なる人々であったことに気がつき、うわあ、と思う。うわあ、は、うわあ、である。

今朝も四時に起き、歯磨きなどをし、文章を書き、文章を読み、文章を音読する。そういえば、仕事中の昼寝で、昼寝中、脳裏に、朝方読んだらしき文章が流れていくという面白い体験をした。半分無意識半分意識といった感覚だった。ざざざあっと流れていった。無意識ってこうやって学習するんやってぼんやり思った。これからもどんどん本を読んでいこう。文章は流れるようにかけた。文章音読も、小島佑馬さんという、漢学者と出会え、とても有意義にすすめられている。中国の学問というのは、みんなで、みんなが幸せに暮らせる社会をなんとかしでこしらえられないものかと、知恵を出しあい築かれていった巨大な有機体なのだろう。そんな感想を抱いている。あとで反故するかも知れない。現時点での印象。

ちょっと、今、目がしょぼしょぼしている。

広辞苑からは、色々と面白い文字を知った。知ったのだけれども、大半は忘れた。そのうち思い出すだろうと思う。

そういえば、今週、折坂さんのライブだ。楽しみだなあ。楽しみだ。正直、他の言葉が思いつかない。ただ、楽しみ。今日よりもう少し暖かい、小春日和だといいなあ。いや、別にどっちでもいいや。ライブの日、夕飯をどうしようか、と勘案している。蕎麦を食べたい。寿司を食べたい。インドカレーを食べたい。色々思っている。いや、多分、この三つのうちどれかだろう。昨日まで蕎麦を食べたかったのだが、今は、寿司が食べたい。

先ほど、買い物を済ます。先週ごろより、日常の買い物回数をさらに減らせないか、と勘案している。その具体的な手段としては、保存の効くタンパク源を購入するというもの。これまでなま肉や生魚をメインに購入していたため、賞味期限がせいぜい三日。三日に一度は買い物へ行かねばならなかったのだ。というわけで、今回は、佃煮をいくつか買う。肉も鮮度が高いものを買ったので、三日間持つ。最初の三日を肉と生牡蠣で過ごし、残り三日日を佃煮と卵納豆などで過ごすという六日間計画である。ひとまずの目標は、一週間を一度の買い物で賄えないか、というもの。週末の土日ほど、自炊する回数が増えるから、土曜の昼ないし金曜の夕方に買い物へ行くのがベストだろうか。金曜の夕方に、土日月で食す七食分くらいの生鮮食品を仕入れ、火水木金の4日間分の佃煮、干し魚、卵、納豆、豆類、豆腐、等々を仕入れる。野菜などは、宅配サービスを使えば、買い物袋の重さも程よくなるだろう。うむ。うむ。いい感じである。

そういえば、先ほどの買い物で、塩クラゲなるものを買う。これまでクラゲは食べたことないよなあ、と思い購入した。ちょっとためらいがあった。先ほど、つまんで触感を確かめたのだが、結構硬かった。何も言われなかったら、植物の根っこを干したものかしら、と思っていたかも。

週刊少年ジャンプを買う。まだ読んでいない。

今日、色々あった気がするのだが、どうにも記憶にない。ぼうっとしている。

そうだ、俺の夢はバカ田大学を創設することなのだ、とふっと閃いたことをふっと思い出した。別に忘れていてもいい。何故ならば、すでにメモをっているからだ。思いついたことはその場でメモを取るので、だいたい忘れる。ふっと思い出すことがある。

そういえば、姉の友達がうちへ遊びに来たときことを日中ふっと思い出したということをふっと思い出した。あれは、俺がまだ10歳くらいの頃だったんだよなあ。いや、12歳くらいだろうか。姉も姉の友人も中学生だった気がする。

思いついたら即行動の俺は、日中を、心の中にバカ田大学を設立した。バカ田大学だと、ネーミングを百パーセント赤塚不二夫さんに頼ってしまっているので、オリジナルな名前ないかなあ、と思案する。白痴のヤマイダレを取って、白知ないし、白智としてはどうだろう、と思ったのだが、白知大学という語感がちょっと微妙である。はくちではなく、しらとも、大学、ではなく、学園や学校と続ける。あるいは、University of HAKUCHIなどとするといい感じかなあ、と思っている。ともかく、暫定的ではあるが、名前が決まった。HAKUCHIいい響きである。昔から、白痴という言葉と語感が好きである。子供の頃から、バカ田大学を作りたかった。ひとまず、HAKUCHI大学ということにしておこう。

実は、ここしばらく大学の創設について考えている。

で、考えた結果、その大学では、以下の科目を学んで行くのが適当だと、現時点で考えている。

1、創作。2、哲学。3、農業。4、建築。5、裁縫。後半三つは衣食住である。が、ものづくり、とう意味では、実は、全て、1、創作に内包される。全ての価値観が人工的である以上、哲学も創作なのだから。また、現行の大学でよく見られる工学、経営学とうとうも創作に内包される。だから、この大学では、工学部や経営学部が存在しない。また、経済学や医学などは、哲学に内包され、哲学は創作に内包される。数学だけは、微妙だなあ、と思っていて、果たして創作に内包できるのか、哲学に内包できるのか、よくわからない。よくわからないので欄外に置いている。

名前と骨子ができたので、あとは中身である。

『世界』憲法論文選

恒藤恭さんの「戦争放棄の問題」より。

実は、この論文自体は、文章がくだくだくしく途中で読むのを放棄している。

ただ、途中、印象的な文章があったので、そこだけ引用します。備忘録みたいなもの。

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「いったい、現存する数十の国家の中で、真に全く自力のみによって、外部からの侵略・攻撃に対し独立を保持することのできるものが、果たしていくつ見出されるであろうか。」

 

軍事力も弱い商業力も弱い国家が多数存立していることの素朴な不思議。

今、俺は、そうした事実を、不思議に感じている段階で、どのような事情で、どのような実態でそうなっているのかとかは、まだわかっていません。

日記

日記を書いている。当たり前か。

今、ちょっと、ぼんやりしている。日記を書こうと思っているはずなのだが、何から書こうか、何を書こうか。窓のカーテンや壁紙を眺めて考える。考えている、というより、感じ取っているといった実感だろうか。

今日は、日曜日であった。日曜日であったことは確かだ。

今朝は、ぐっすり眠った。気持ちが良かった。眠りたかったから、眠った。もう日の出がずいぶん早くなっており、目覚めた八時には外は明るかった。あまりの明るさに昼過ぎまで眠っていたのだろうか、と思った。夢を見ていたが、断片的にしか覚えていない。悲しい夢であったような気もするし、楽しい夢であった気もする。夢とは関係ないのだが、去年旅行した和歌山田辺市へ、また行きたい。いったところでなんだというのか。あの街で会った人たちとまた会いたい。息災を祝い合いたい。出会ったといっても、親しくなったわけではないし、友好的に会話を楽しんだってくらいのものだろう。向こうは覚えていないだろうし、まあ、そういうものだ。単に、どこか遠くへ行きたいだけなのかもしれない。

今日は、断食をしていた。断食というとその語感もあって、なんだか厳しいイメージが沸き起こる。でも、ただ字義通りに、食事を取らなかったというだけのことだ。と言いつつ夕飯はすでに済んでいる。つまり、昨夜の夕飯から今晩の夕飯までの間の約二十四時間の断食なのである。僕は、時折、この二十四時間断食を行う。行う理由は特にない。やりたくなった時になる。はじめは、ちょっとした修行のつもりだったが、今回は、そういう辛い感じはなく、普段と違う食生活を楽しむ、くらいの軽い気持ちで行った。初めて行った際は、日中からすごくお腹が空きだして、ああ食べたいああ食べたい、と思いめぐらしていた瞬間が途中途中にあっただが、今日は、そういう気持ちがほとんど湧かなかった。唯一例外的に、午後四時を過ぎたくらいから、もうそろそろ夕飯だなあ、楽しみだなあ、と思ったくらいだ。いや、午後三時くらいからかな。よく覚えていない。夕飯は、近所のインドカレー店で取りたかったのだが、日曜日は定休日のようだった。ヒンドゥー教にも、安息日の習慣はあるのだろうか。なので、しばらく、食堂街を散策した。普段通る道でもあるのだが、ご飯屋さんご飯屋さんと思って歩くと新しい発見があった。焼肉屋さん二軒、パン屋さん一軒、和菓子屋さん一軒である。パン屋さんにてパンを買って帰る。小さなパン屋さんで、夕暮れということもあってかほとんどパンが並んでいなかった。パン一種類につきパン一つといった風だった。なので、はじめこれはディスプレイで、本物は店員さんにだしてもらうのか、と思った。そういうこともなかった。パンだけでは、満腹しそうになかったから、コンビニでおかずを一品。実は、今も少しお腹が空いているから、あとでまた、何かしら買いに行くかもしれない。断食すると、というか、普段と生活を少しずらすと、何かしら新しい発見がある。今回の発見は、昼ご飯を取らないと、お昼を長く感じる、というもの。当たり前のことだが、今日初めて、気がついたかもしれない。朝食と夕飯しか取らない生活というのもありだなあ、と思った。俺は今、職場の給食でお昼を賄っているのだが、これもいらないかもなあ、と思った。月九千円くらい給食に使っているから、お金の出も少なくなるなあ、と思った。また、インドカレー屋さんへ向かう途中、色々なことを思いついた。それらはスマフォでメモを取った。断食をしてエネルギー源を断つと思考力が落ちる、というイメージがあったのだが、そうでもなさそうだ。創造性は一切衰えない。せいぜい、根気と言うものがなくなるくらいだ。帰ってフラットな視点が手に入る。よく、朝ごはんを食べない子供のテストの点が良くない、と言うが、それは単に、ご飯を食べなかった結果、一つ上の視点から物事を眺め、その結果、テストなんてどうでもいいやと思って、テストに集中せず、結果点数として現れる、と言うだけなのではないだろうか。武術家の光岡英稔さんは、光点へ反応速度で、動体視力を測るというテストを受けた際、テスト内容に一切興味が湧かず、全く結果が出なかったそうである(記憶頼りの知識です。ご了承を)。学校のテストにしたところで、小学校のテストで100点取ることと、優れた論文を書き上げることとの間に相関関係など一切ない。ちょっと、俺の偏見が混じるけれど、学校のテストというのは、本当は、どうでも良いものなのだ。入試問題も含めて。

今日は、本を音読したり、統計を取ったり、ぼうっとしたり、洗濯物を畳んだり干したり、本を読んだり、散歩をしたり、音楽を聴いたりして過ごした。散歩中、小学生らしき女の子に話しかけられたのが嬉しかった。大人に話しかける時、子供は、心の中で大人になる、そんなことを、その子の大人びた態度から思った。違うかもしれない。

あと、ツイッターを見たり、あとで読もうと思ってお気に入り登録していたサイトの記事を読んだりした。

そういえば、昨日、ソローの『森の生活 下』を購入した。この頃、本はできるだけ書店で購入するようにしている。マニュアルっぽい感じで話す店員さんで面白かった。昔の俺だったら、そのマニュアルっぽさに、怒りを感じていたんだろうけれど、今は、おもろいなあ、としか思わない。そういう信念の持ち方も、またよし。

パン屋の帰り道、ちょうどいい平屋の民家を見つける。小さな家。車が一点五台くらい入る庭付き。なんの木か知らないけれど、可愛らしい木が一本。誰かが済んで暮らしているんだけれど、こんな家に引っ越すのもいいな、と思った。アパートやマンションの需要が高まっている昨今、意外と安く借りれるかもしれない。一ヶ月一万五千円以内ならば、即座に移り住むだろう。古い家ならば、インターネット環境ないかもしれないが、ならば、モバイルワイファイを試せばいい。庭に、小屋やテントを建ててもいい。平屋、というのが良かった。ちょっと壁はボロくて、修繕したいと思ったけれど。

ふう。何かおやつでも、買ってこようかな。

そういえば、俺は、食事その他雑費を月四万と計画しているのであるが、ここしばらく四万円をオーバーすることがちょくちょくあった。が、今月は、余裕を持って終わりそうである。生活を整えた結果だろう。本もちょくちょく買っているし、食事も外で取ることがあるけれど、それでもすっぽり予算に収まりそうだ。

何か書きたいこと、あるだろうか?

今日は、いくつか未来記事を書いたりもした。

それに、未来記事についてのアイディアもいくつか生まれた。

でも、それらは、そのうち公開されたり、そのうち記事にしてさらにそのうち公開されるはずだ。なので、今、書くことではないだろう。

記事に関しては、少しずつ方向性が定まりつつある。少なくとも、僕の中で、転換がある。もう、怒る事はやめようと思う。こうしたらいいのに、とか、こんなんじゃダメだろう、と思うことがあるけれど、それはただ、僕の思いに過ぎないだろう。僕がこれからするのは、僕はこう生きたい、僕はこう生きている、くらいのものだろう。この二つを書く過程で、細々とした記述が生まれることもある。そうした補足的な文章を除けば、他には何も書かないであろう。

『世界』憲法論文選

「『世界』憲法論文選」を読んでいて、面白いなあ、と思う文章を見つけた。

山川均さんの「非武装中立は不可能か」

山川均という名前はこれまでよく見かけてきたのだが、不勉強のため、今回初めて、山川均さんの文章を読んだ。

文章力が半端ない。時に論理的文章が展開され、時に信念で文章が書かれているというように一連の文章の中で論理と感情とが使い分けられている印象だった。

大げさかもしれないけれど、僕はこの「非武装中立は不可能か」で山川均さんに恋におちた(一般的な恋とは違いますが)。

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「これに反して、ドロボウははいるかもしれないが、それにもかかわらず戸締りはせぬ方が安全だということを立証するためには、まず第一に、ドロボウのはいる危険率の大きさを正しく見きわめる必要がある。次には、戸締りをすることによってこの危険の避けられる可能性の大きさを測定し、さらに戸締りすることから生じる別の危険(セッ盗

か強盗にかわる危険もその一つである)の大きさを測定し、これを差引したものを、第一の危険とくらべてみる必要がある。要するに、これはドロボウがいるから戸締りが必要だと結論することよりも、はるかに複雑で高度の心的操作を含んでいる。そこに再軍備反対論にとっては、自己防衛の本能に訴えるだけでいい軍備論よりも、より多くの知性に訴える説得の努力が必要なのである。」

1952年に発表された文章です。

日記

母と電話していた。楽しかった。でも、少し、憤りの吐露。母は、受け流す。受け流されてよかった。この世界には、色々とおかしなことがあって、おかしいだろう、と喋っても、誰も相手にしない(何故ならば、みんな物を考えないから)という現実がある。でも、だからと言って、そうした世界の愚かさを指差しても、つまらない。実は何も変わらない。おかしなことからは目を背けて、素通りするのが良いのだろう。素通りすることに慣れないうちは、時折、気心知れた人に、憤りを吐露するのが良いと思っている。でも、そうした憤りの吐露も、そのうちなくなる習慣だろう。馬鹿に馬鹿と言っても、やがて疲れて、使い物にならなくなる自分が転がるだろう。誰もいない空間へ。誰もいない空白へ、そこで一人黙々と考えたり、作ったり、体を動かしたり、呼吸したりしているのがいい。

今日は、太極拳道場の日であった。なので、端的に言って、ちょっと、ぼうっとしている。母と電話して、そのぼうっとした感じが薄らいだけれど、やはり、ぼうっとしている。だから、えっと何だ。だから、えっと何だ。

太極拳。楽しい。また、コツを掴んできた。ほんのちょっとしたきっかけで、改善点がわかるのだ。ああ、ここをこうすれば良いのか。なるほど。簡単だ。簡単に、成長してしまう。来週も成長するだろう。夜、眠っている間も成長するだろう。

今朝は、四時に目覚めた。歯磨きなどをし、文章を書き、文章を読み、文章を音読した。文章を読むのが楽になってきた。慣れてきたのだろう。次々と読み漁っておる。文章のアイディアお、じゅんじゅんと溜まっている。

その後、ウィトゲンシュタインの講義録や、堀辰雄さんの「美しい村」を音読したりする。「美しい村」を読み終わる。ただただただただ、眼に映るものを描写したような物語だった。意図的に、悲しい気持ちを拭い去ったような物語だった。と、そんな感想。また、読み返したら、違う思いが浮かぶのかも知れない。

ウィトゲンシュタイン講義面白い。全体像は、まだ見えてこない。でも、面白い。要は、俺は、多くのウィトゲンシュタインのファンと同様に、ウィトゲンシュタインその人のことが好きなのだろう。ウィトゲンシュタインの著作には、人生をいかに生きるべきか、と言ったそんな話はどこにもない。でも、そんなことはどうでも良いし、そもそも、いくらでも、文章の端々、表現の端々から、人生を学ぶことが出来る。

その後、ブログの未来記事などを書く。四月から新しく二つの記事をスタートするのだ。一つは、ありきたりな風景をただ写しただけの写真。もう一つは、面白いと感じた漢字。漢字の方が、ちと進んでいない。理由は簡単で、あまり使われない漢字を表示したいのだが、変換候補にあがらないのだ。手書き検索などを試みたのだが、ヒットせず。これまで使用したことがなかったのだが、イラストレーターなどを使って手書き記事にしようかしらと、思案している。気が向いたときに、作業することにしよう。漢字について記事を書くと決めると、俄然漢字辞典読書が面白くなるから不思議だ。そのほかにも、ちょっと忘れてしまったのだが、もう一つ記事を増やす予定である。というか、もう一つ新たに増やそう、と今日、思いついた。もは、ブログに対して、一種の執念のようなものが生まれている。いついつまで更新を続けるかは、決めていない。もしかしたら、これから一生ブログで書き続けるのかも知れない。もしかしたら、ある人生の段階までずっと書き続けるのかも知れない。もしかしたら、明日にはやめているかも知れない。そのような無規定な期間で、ただただ書いていたい。そのように思っている。

確かに、馬鹿で愚かな人間はたくさんいる。でも、何というか、そうした愚かな人たちに対して、そんな馬鹿なことやめろよ、と小声で怒鳴るのは、もうやめようと思う。人からの助言あり、そうした憤りの発露が無意味であることにふっと気が付いたからだ。今日。これまでの日記でも、憤っていたし、これから順次更新される未来記事の中でも、それなりに憤っている。その憤りは、一聞の価値どころか百聞というか80億聞の価値があるとは思うのだが、それは、俺自身への価値じゃない。俺が立ち止まれば、この世界はこの程度の美しさで終わってしまう。俺が立ち止まらなければ、この世界は、とんでもなく美しくなっていく。まあ、そういう話ですなあ。

今日は、パイプをまだ喫っていない。別に喫わなくてもいいんだよなあ、と思いつつ、いつ喫おうかしらと未来の到来を楽しんでいる。未来の到来を燻らせている。

そういえば、昨日、ユーチューブにて、イ・ランという韓国の音楽グループを知る。人名ではなく、グループ名だと思う。歌詞がよかった。歌い方もよかった。まだ、好きになりかけているくらいの状態なのだが、出会えてよかった。世界中には、こんな素晴らしい音楽があるのだなあ、と思うと嬉しくなった。

そういえば、今朝は、ウィトゲンシュタイン堀辰雄以外に、例の憲法論文選を読んだ。正直、面白みを感じない論文が並んでいたのだが、山川均さんの論文というか、山川均さんの文章が面白かった。論理的であり、情念的である、というヘンテコな文章で、恰好良かった。僕は、思想内容より先に、文章で文の良し悪しを決めることにしている。直感である。ともかく、山川均さんの文章をもっと読みたい。山川均さんの文章に出会えたことに感謝している。